8月6日夜、帰宅した開少年は、疲れを感じる暇もなく、次の準備に取り掛かりました。
次の企画は中学時代の友達と2人での九州周遊旅行で、8月10日大阪駅19:51発、金星51号熊本行き(名古屋始発)に乗り込み、それは始まりました。最初の3,4日はお互いの親の実家(友人は福岡、開少年は熊本)へ滞在し、15日の朝、博多駅のホームで待ち合わせることにしたのですが、普段住んでいる街からずいぶん離れた場所での待ち合わせには非常な胸の高鳴りを感じたものでした。博多からは長崎本線の特急カモメで異国情緒の街、長崎へ、昼食後に大村線で佐世保へ、そして松浦線で当時日本最西端の駅だった平戸口へ向かうという、長崎県を南北に縦断する鉄道ファンらしい移動でした。平戸口駅から歩いて対岸の平戸島へ渡る平戸大橋を撮影したところまでは記憶にあるのですが、その先の記憶がありません。長崎県内や佐賀県内で買い求めた駅の入場券から、その日そこにいたことがわかるだけです(アリバイの反対?)。
次の記憶は翌16日、熊本県の八代駅から急行えびのに乗車し、国鉄肥薩線・吉都線を経由して宮崎へ出るところまで飛びます。肥薩線はその名の通り肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)を結び、つい先日令和2年7月豪雨で氾濫した球磨川に沿って山間部を縫うように走る路線です。途中には素晴らしい風景だけでなく、スイッチバックやループなどという、鉄道ファン垂涎の軌道があり、険しい地形にもかかわらず鉄道敷設に従事した方々の並々ならぬ意気込みや努力を感じざるを得ませんでした。今回の豪雨で被災された地域の復興とともに、肥薩線が廃線とならないことを祈るばかりです。
宮崎駅から日南線を南へ7つ下ったところに「子供の国」という駅があったので、当時としては珍しい駅名に興味をそそられ、とりあえず行ってみることにしたのですが、ちょうど時間の合う列車がなかったためか、2人はバスで向かったのです。青島や都井岬といった観光地を擁する日南海岸沿いの道路、お盆ともなると交通量が多いのは当たり前ですが、そんなこと高校1年生の我々には想像もできませんでした。案の定大渋滞にバスは捕まり、その日の宿泊地を考えたら途中で戻らざるを得ず、「木花」という駅の近くでバスを降り、泣く泣く引き返す列車に乗りました。宮崎へ戻った2人は日豊本線を北上し、延岡から高千穂線に乗り換えました。
九州への臨時特急金星51号の特急券
大村も相浦もどちらも長崎県内の駅
有田は佐賀県の駅、そしてそこで日付が進んでいる(?)
吉松は肥薩線と吉都線の接続駅。
当時の球磨川です。
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